昔から、よく旅館の経営者の皆さんと「旅館の料理」に関する議論になることがあります。
それは「料理の量」の問題。(多過ぎるのか、そうではないのか)
旅館の事業再生時のスポンサーとなる皆さんなんかは特に「この食べ切れない量のどこが適量なのか」と言い、調理場も「ロス(廃棄)が多すぎて、原価にも響く」と仰います。私も食べ切れません。最後のご飯まで平らげられるのは、十回に一回あるかどうか。
しかし、接客現場や経営者の方に聞くと、「多過ぎても『食べられないよ』と苦笑されるくらいですが、もし『少な過ぎる』ようであれば、確実に大苦情になります」とのこと。
「料理は理性で食べてない、感情で食べている」ので、「絶対に少な過ぎることは許されない、残すくらいでちょうどいい」というのが、ほとんどの旅館の現場感覚なのです。
食事の量には「個人差」があり、質に関しては「経験差」がありますし、同じ人でも旅の目的で変わってきます。誰かを招待した旅行であれば、誰もが「量は多いほうがよい(少な過ぎると恥ずかしい)」と思いますし、自分のための旅行であれば、「健康のためにも多過ぎないほうが良い」と考えるでしょう。
温泉ファンを中心にすこぶる評判のよい川渡温泉「みやま」に、知り合いの方が視察に行かれた時、「あれでは少な過ぎ」と驚いて帰ってこられました。きっとどなたか「みやまに関する事前知識のない方」と一緒に行かれ、少ないと言われたのではないかと思います。この宿は、滋味あふれる地のものを味わう事を楽しみに行く、つまり、「自分で楽しむのに適した」宿だからです。
こうした問題に対し、多様な客層に対して単一メニューで臨むなら「(質は差こそあれ)量は多く!」というのが、旅館の最大公約数的標準感覚なのです。本来、新潟の「汐美荘」や「ゆめや」がやっているように、コースにより量を選ぶことができるというのが理想でしょうが、選択させるとそれだけ手間がかかりますので、現在の調理師の人数では難しいところが多いかもしれません。追加料理にしても同様。どうせ出るなら、最初から出したほうが調理場は勤務時間が減り、楽ですからね。
そこで、「量は多めに出るかもしれませんが、献立表を見ながら、多ければ食べ残してください」というのが旅館の親心ということなのですが…
「食欲は、理性ではなく感情。感情で食べる限り、量は多く」。
ある意味もっともな、この問題にどう対処していきましょう。
そう言われても、私としては、とにかく、ロス率13%(農水省調べ、重量ベース)という、食べ残しを見過ごしたくはありません。13%を残飯として捨てているのです。せめて、信州の「明神館」のように堆肥化して自家用として循環できればベターなのですが、ほとんどの宿でその手間はかけられないと思います。堆肥化のコストもバカにはなりませんし、堆肥化したところで、きちんとやらないと、土の栄養に偏りが出てしまいます。
結局は、今のところ対処療法としては「選択制」がベスト。次に「料理の量」について、情報を事前提供すること。しかし、これも、「写真を出したりして、もし違っていたら、苦情になる」と必ず言われます。
苦情、苦情、苦情…
これをいかに避けるか、というのが、料理の量以前の現場の至上命題なのです。
「消費者庁とか言ってるけど、できれば、消費教育を先にやって欲しい」。そういう願いも少なくはありません。かと言って、消費者だって、決して悪くはありません。と、だんだんと、表面的・日常的な議論になってしまいます。
悪いのは何か。私の今の結論は、大局的に考えれば、悪いのは「需要の週末への極端な偏り」。「需要の平準化」を目指し、週末偏重を改善することが、結局の改善策だと思っています。料理の量問題は、日本人の休日を分散し、消費を平準化すれば(アリのような安定経営になり)、自然に直ると思います。
なぜなら、需要が平準化され、旅館の資金繰りが安定すれば、夕食選択制への余裕ができるからです。まずは、「何もできない」病に陥っている中小企業の経営の安定化が必要。そのうえで、ちゃんと議論したいものです。「休日」の高速道路1,000円化こそ、刺激策としては理解できても、続けたとしたら愚の骨頂。これでは、キリギリス(稼げる時に稼ぎきる)病という最悪の観光経済を招き、一層、旅館料理の量は増えることでしょう。
料理の量を考えるなら、「需要」の平準化。
ちょっと違った角度から、旅館の料理の量について考えました。よろしければ、こちらもご拝読ください。
http://allabout.co.jp/travel/yado/nlbn/NL000097/vl_268.htm
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